「謝罪」のある風景

殴られないで大きくなった奴があるかっ!!という名言を残した軍人がいる。たぶん殴るという行為そのものには本質的な意味はなくて、上下関係、時には親子関係という儒教的規範にものをいわせて相手を押さえつけ、その上でそいつの非を身体で理解させるということなのだろう。自分の非を理解できない子供には有効なしつけとなるが、処方を誤るとその子の精神的発達を阻害することもある、諸刃の剣・・・というか、そんなことを言ったらどんなしつけや教育だって諸刃の剣じゃね?ともあれ、そういうことの繰り返しで、子供は大人の世界ってものをなんとなく理解していくのかな。それがいわゆる、成長とか、大人になるってことなのかね。

大人は、殴られなくても大きくなる。すなわち、自分の非を自ら認め、自分の行為によって被害をこうむった相手に「謝罪」するのだ。非を認め、相手に対し詫びの言葉を言う、頭を下げる、土下座する・・・これらの行為は、相手に対したとえかりそめであれ自ら服従的態度を取るという恥辱に耐えるということだ。平時であれば、正常な人間にはとてもできることではない。人に頭を下げられる人間は、自分を律し他人を思いやることのできる人間として重宝される・・・ような気がする、気がするというか、そういうことの出来る人間になりたいの。

しかし、謝罪のあとに何が残るのだろう。ときどき、こんな人がいる。自分の非を認めるのはいいのだが、とにかく平謝り。顔を見れば平謝り。うざいからもういいって言われても平謝り。曰く、「自分の気が済みません」と。つまり、この程度の謝罪ではミスを犯した自分を納得させられないということなのだろう。

なんだか哀れだ。でも、その人の気持ちも分かるからその人を笑うことなんてできやしない。謝られている自分にできることといえば、「もういいから、今後は気をつけてね」と声をかけることくらいだ。

謝らなければいけない立場になってしまった。私は、心から詫びた。嘘かホントか知らないが、「大したことないから」と言われた。口には出さないが、現状復帰するために割かねばならない犠牲があれば、出来る範囲で受けるつもりだ。そして、真摯に反省し、今後に生かす。私に出来ることは、それくらいなのだ。謝罪の言葉をばら撒きたいよ。そうやって自分を納得させたいよ。猛省している自分を世間にアピールしたいよ。でも、たぶん相手はそんなことを求めているわけではないだろうから、だから我慢する。それよりも、再発防止の努力をする。

世間には謝罪があふれている。公的機関は、不祥事を起こしてはトップが禿頭をさらす日々。某国はいまだに謝罪と賠償を要求し続けている。見てて飽きないね。

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