「コンビニ人間」を読んで。

昔、小学校や中学校で出されていた長期休暇の宿題の定番といえば、読書感想文ですよね。小生は読書感想文が大変苦手でした。苦手でしたというか、何をやっていいのかわからないわけ。自由研究もそうでしょ、まず、あまりにも「自由」すぎて何を題材にしていいのか分からず、そしてどのような方向に仕上げていけばいいのか皆目検討がつかないわけです。親が教員の子なんかは、大変素晴らしい自由研究を発表したりして、ますます萎縮する小生。明確な答えがあってそれを導き出すタイプの宿題であれば、簡単とか難しいとか、時間がかかるとかあるけどまあなんとか取り組める。でも、読書感想文ってどうしようもないわけ。手順がないから。まずなんの本を読んだらいいのかわからない。マンガじゃ(たぶん)だめだし、かといって純文学を読むなんて小学生には不可能だし、誰に聞いたらいいのかもわからないし。ようやく手に入れた「自由」を持て余しちゃってるわけ。

そうこうするうちに、なんとか本を決めて読み始める小生。読書は嫌いではないのである程度サクサクと読み進め、どうにかこうにか読了までこぎつけた。ああ面白かった、とか、ああ長かった、とか思いながら、さあ書くぞと原稿用紙に向かうも、何を書いていいのかわからない。今取り組んでいる課題は読書感想文なのですから、この本についての感想を書けばいいのは小学生の小生でもわかる。でも、感想って言われても!そもそも、これは学校の宿題なのだから、と幼い小生は考えたものです。これは学校の宿題なのだから、宿題としての完成度というか到達地点は、担任の先生からOKが出るようなものを仕上げることである。とすると、いくら「感想文」とはいっても、「面白かった。」だけで終わってはたぶんダメだろう・・・だとすると?では何を書いたらいい?この作品の成立背景?著者の人となりの研究?そういうものをよちよちと書き始めて、ふと気づいてまた唖然とする小生。これは、本の最後に書いてある「解説」と同じではないか!すでに「解説」があるのに、小生があらためてエラソーに解説を書いてどうする!!

このように、毎年呻吟しながら読書感想文を書いていた小生ですが、中2くらいのときに書いた読書感想文が国語教師の目に止まり、何度か添削を受けたのち提出した読書感想文が地元の読書感想文コンクールに入選したのです。その教師は、小生が適当に書いてくる文章を読んで、「こういうことを書いてみたら?」とか「ここはどう思った?」とか、小生が書きやすい方向にうまく誘導してくれて、小生が考えていたことをうまく引き出してくれました。その教師には今でも感謝しています。

そんなこんなで、読書感想文はとにかくなんでも思ったことを書いたらよいとわかった小生。つい先日「コンビニ人間」を読んだのでなんか書いてみます。

・・・書きますと言いながら別のことを思いついちゃったので、本題に入る前に脱線します。本との出会いって様々ですよね。「コンビニ人間」は親類から超絶勧められたので読みましたが、そうじゃなければ出会わなかったかも。芥川賞で注目されましたが小生の目には止まっていませんでしたし。そういえば「火花」も読んでないなあ・・・ところで上で少し書いた中2の読書感想文は「人間失格」で書きました。中2の青二才が「人間失格」!?なぜか家にあったのですよ、「人間失格」が。一緒に収められていたのは「黄桃」。うろ覚えですがこれまたどうしようもないくらい人間らしい中年男性が主人公だった気がします。太宰治って、自分自身をモデルにしたかのような「私小説」っぽい作品がわりとありますね。それもだいたい内容が同じという(笑)あ、私小説といえばヘッセを思い出しました。有名な「車輪の下」とか、「春の嵐」とか。これまた同じような内容ばかり書かれていたような・・・うろ覚えですので違っていたらすみません。

さあ「コンビニ人間」の読書感想文のはずが、「コンビニ人間」の内容にかすりもしない文章が続いていますが、これも読書感想文なのですよね。それを読んでどう感じたか、どんなことを思ったか、それを書き連ねることはとても素晴らしいことだと思います。読んでくれる人がどう思うか分かりませんが(笑)でも、読む人に迎合した文章は、それはそれこそ小学校の読書感想文課題と同じじゃないか、と思ったりもするわけですよ。だって、先生にどう評価され、どんな点数をつけてもらえるか、それを考えて取り組むのが「課題」ですもの。

ただ、そうはいっても、ただ書き殴るだけの文章を公開することになんの意味があるのか・・・もしかしたら、読んだ人の心とか、考え方とか、そういうものをどういう方向にせよドライヴさせるものが書ければ、まあ何もしないよりもいいのかな・・・なにせ、小生は誰かに金をもらって文章を書いているわけではありませんのでね。賞とか商売とか関係なくて気楽なものです。

さあさあ、そろそろ「コンビニ人間」の感想を書かねば。うーんうーん・・・作者は芥川賞受賞後もまだコンビニでバイトしてて・・・主人公の女性はこういう人で・・・

あー!!「解説」かっての!

誰も彼も「自分」が何者かわからず苦悩している。社会の中で、自分がどんな歯車なのかわからない。なんとなく「こんな感じかな」と思っても、自信がない。自分という歯車はどれだけ大きいのか、それともちっぽけなのか、しっかりと他の歯車に食いついているか、それとも空回りばかりか。どれだけの力で他の歯車をドライヴさせているのか・・・なんてことを考えることに精一杯だし、でも他人に相談するような内容でもないし。苦しい。答えがないから。読書感想文と同じだ。ああ、なんか繋がった!

主人公の女性は、歯車を正常な(と社会が判断する)状態の位置に持っていこうとするが、実は現状の状態が、もっとも歯車の収まり具合が良い状態だったということが、現状を崩した後になってわかった。そして、自分だけの歯車でもって収まるべき位置に収まり、社会という大きな時計をドライブしていく・・・答えはない。自分がいいと思ったらそうすればいい。

「歯車」と何度も書きすぎたせいで、芥川龍之介の「歯車」を思い出してしまいました。「コンビニ人間」は芥川賞受賞作。小生は「コンビニ人間」を読んで、芥川の「歯車」というタイトルを思い出した。「コンビニ人間」は歯車となることを是としているが、「歯車」に出てくる歯車は死や妄想の象徴。さあ、ここからカッコよく文章を締めくくるぞ!むお!何も思いつかない!でも、小さな歯車でも、何かをドライヴさせてる実感があるって、すごく素晴らしいよ。社会に必要とされているってことだもの。星野哲郎はネジとなったが・・・ともかく、別に歯車でいいじゃん、歯車を組み合わせて社会をデザインする側じゃなくてもさ。歯車であることを実感するかより、社会をドライヴさせていることを実感すること。これが大事かも。社会って大きすぎて実感がわかないけど、友達、家族、コンビニのバイト仲間、お客さん、そんなのも社会だよね。その中にいることって幸せなことですよ。

よし決めた、今年の小生のテーマ。「コンビニ人間」「芥川賞」「歯車」これらのキーワードから導き出したもの。それは、ドライヴ。今年はこれで行くぞ。

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